菊地大司教枢機卿に任命される
教皇フランシスコは、ローマ時間2024年10月6日正午(日本時間午後7時)、バチカン・サンピエトロ広場に集まった巡礼者や訪問者に向けての「お告げの祈り」において、タルチシオ菊地功東京大司教を含む21名を枢機卿に任命することを発表なさいました。

 

祝、世界遺産登録! 潜伏キリシタン関連遺産 長崎の教会群ほか

2018.6.30

 

新教皇 フランチェスコ1世 選出!

 
フランチェスコT世の紋章
ローマ時間の3月13日午後7時5分(日本時間14日午前3時5分)、システィーナ礼拝堂の煙突から白い煙が上がった。バチカン放送のテレビ中継が生放送で伝えた。聖ペトロ大聖堂の鐘も鳴り響き、広場には大歓声が上がった。 助祭職階の首席枢機卿、ジャン=ルイ・トーラン枢機卿が同午後8時12分、聖ペトロ大聖堂のバルコニーにから、サンピエトロ広場を埋め尽くした群衆に向かって、ラテン語で宣言した。「私はあなたがたに大いなる喜びをお知らせします。私たちに教皇が授けられました」。その後、第266代教皇に選ばれたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76/イエズス会)の名前と、新教皇がフランシスコと名乗ることを発表した。
ベルゴリオ枢機卿は1936年12月17日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス生まれ。ラテンアメリカからの教皇は初めてで、バチカン放送によるとイエズス会からも初の教皇となった。 ブエノスアイレス大学で化学を学ぶが、イエズス会に入ることを決心し、ビジャ・デボトの同会神学院に入った。


1969年12月13日、司祭に叙階。
1973年に終生誓願宣立。 イエズス会のアルゼンチン管区管区長に選ばれる。
1980年、サンミゲルのビジャ・バリラリ神学院で修練院長を務める。
1992年5月20日、ブエノスアイレス教区補佐司教に任命。
1997年6月3日、同教区協働大司教に任命。
1998年2月28日、同教区大司教として着座した。
             
                       【カトリック中央協議会記事から 2013.3.7】

 

教皇ベネディクト16世は、
2022年12月31日に帰天されました(享年95歳)

教皇ベネディクト十六世

教皇辞任!

教皇ベネディクト十六世は、
日本時間、2013年3月1日午前4時を以って辞任することを表明
【カトリック中央協議会記事から 2013.2.12】

白柳枢機卿 ご逝去。

白柳誠一枢機卿は、2009年12月30日早朝、療養先の上石神井修道院で心筋梗塞のため帰天されました。81歳でした。

白柳枢機卿は1928年東京生まれ。
戦時中は函館のトラピスト修道院へ疎開。
1954年12月 司祭叙階。
1966年3月 東京教区補佐司教。
1996年5月 司教叙階。
1982年 第2回国連軍縮特別総会へ日本から約43万人の署名を携え国連を訪問。
1994年11月 枢機卿。
2000年6月 東京教区長引退。
2005年4月 教皇選挙へ故濱尾枢機卿と参加。
2008
年11月 日本188殉教者列福式ミサを司式。
                                                        <写真提供:カトリック中央協議会>

『日本人殉教者188人の「列福式」』が 
                   厳かに挙行される。
 キリスト教が禁じられた江戸時代、本県など全国各地で処刑された「ペトロ岐部と187殉教者」をカトリック教会が「福者」とすることを宣言する列福式(ローマ法王庁主催)が24日、長崎市松山町の県営ビッグNスタジアムで国内では初めて開かれた。国内外から参列した信者ら約3万人が、信仰に殉じて福者となった188人を祝った。
1981年に来日したローマ法王ヨハネ・パウロ二世(故人)が殉教者の顕彰を呼び掛けたのを受け、日本の司教団が初めて列福運動を主導。殉教者の調査など二十数年にわたる運動が実り、法王ベネディクト16世が昨年6月、列福を承認した。
188人は1603−39年、本県の島原・雲仙、有馬、西坂、生月の
4カ所をはじめ米沢、江戸、京都、大坂、広島、萩、山口、小倉、大分、熊本、八代、天草、薩摩で処刑された。このうち、ペトロ岐部は司祭になるためマカオから陸路などでローマに入り、帰国後、長崎や東北で布教して殉教。中浦ジュリアンは現在の西海市で生まれ、天正遣欧使節としてヨーロッパに渡った後、神父になり潜伏しながら九州各地で活動し、西坂で処刑された。  カトリック教会の儀式であるミサ形式で行われた式では、殉教者188人を紹介した後、ローマ法王ベネディクト16世の代理として出席したジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿(前ローマ法王庁列聖省長官)が法王の書簡を朗読し「ペトロ・カスイ岐部司祭と殉教者である尊者(そんじゃ)を福者の列に加える」と宣言。殉教者の肖像画が除幕され、188羽のハトが空に放たれた。  ミサを司式した白柳誠一枢機卿(前東京大司教)は説教で殉教者の生き方に触れ「すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしく生きられる世界となるよう祈り、活動することを求めている。恐れずに進もう」と呼び掛けた。  参列した信者らは殉教者の生涯に思いをはせ、祈りや聖歌をささげて列福を祝った。  式には、他宗教の関係者や来賓らも参列。同日午前中から降り続いた雨も式の途中にはやみ、晴れ間ものぞいた。                 (2008年11月25日 長崎新聞から)

ロゴ全体は日本(「JAPAN」の「J」)と「舟」を表しています。下にあるラテン語「ペトロ岐部と187殉教者」の文字部分は「波」をイメージし、福音が宣教師たちを通じて日本へもたらされたこと、そして、日本の教会(舟)が神の国の完成に向かって海原を進んでいる姿を象徴しています。

 

当ホームページの
Q17.「聖人」って、なあに? どんな人が聖人になるの? 
へリンク

ステファノ濱尾文郎枢機卿が帰天されました。

前教皇庁移住・移動者司牧評議会議長のステファノ濱尾文郎(はまお・ふみお)枢機卿が11月8日(木)午後6時57分、入院先の東京・癌研有明病院で肺癌のため帰天した。 享年77歳。
同枢機卿は今年12月21日に司祭叙階50周年の慶事を迎える予定だった。

                                               2007.11.10

 

   

Q1.カトリックって、なあに?

カトリックとはキリスト教の一つの宗派です。キリスト教には、大きく分けてカトリック(旧教ともいいます)とプロテスタント(新教ともいいます)があります。カトリックは「ローマ・カトリック教会」とも呼ばれ、約6億の信徒を持つ、世界最古にして最大のキリスト教組織です。ローマ教会(バティカン市国)を総本山としています。 カトリックの語源ですが、「普遍的である」いう(カトリコス[希])からきています。 カトリック教会は、教えも指導も世界中で一つになっています。バティカン市国にある教皇庁は、その行政府で聖職者の組織は、ローマ司教たる教皇(ローマ教皇=ローマ法王)を筆頭とし、「司教」→「司祭」→「助祭」と下る聖職位階制と、教皇に認可された修道会から構成されています。
プロテスタントは16世紀、宗教改革の時、カトリックから分かれたものです。 現在、世界中2万ほどの宗派に別れ、日本だけでも数百の違う宗派があるそうです。 最近、キリスト教の中に「再統一運動」が盛んになり、共同訳聖書も出版されました。 しかし聖書の解釈とそれぞれの教えには、多少の違いがあります。 なお「モルモン教」、「エホバの証人」(ものみの塔)、「統一教会(原理運動)」などは、その教えからみてキリスト教とは言えないので、キリスト教から区別してください。

Q2.ローマ教皇って、どんな人?

ローマ教皇は現在、全世界6億のローマ・カトリック教徒から「父」(パパ)として尊敬され、「ローマ大司教、イエスキリストの代理者、使徒団の頭「聖ペトロ」の後継者、全カトリック教会の大司祭、西欧の総大司教、イタリアの首座大司教、ローマ管区首都大司教、バチカン市国国家元首・・」など、数多くの肩書きを持ちます。                        
                   

ローマ教皇
 ヨハネ・パウロU世
<ローマ教皇の選び方>
ローマ教皇は、枢機卿」(すうききょう又は、すうきけい:教皇を補佐する最高幹部)の中から選挙で選ばれます。教皇選挙のことを「コンクラーベ」といいます。枢機卿は全世界で135人います。この中には2003年10月21日に枢機卿となられた濱尾文郎司教と白柳枢機卿の2名の日本人が含まれています。ただし、教皇選挙は80歳以下と決まっていますので白柳枢機卿には選挙権がありません。浜尾枢機卿を含め、選挙権のある枢機卿は117人となります。
(2005.3現在)

日本人の枢機卿は、
1960年3月28日に土井辰雄東京大司教(職名は任命当時のもの、以下同)が初めて任命され、
以後、1973年3月5日に田口芳五郎大阪大司教
1979年6月30日に里脇浅次郎長崎大司教
1994年11月26日に白柳誠一東京大司教
2003年10月21日に濱尾文郎大司教
2018年5月20日に前田万葉大阪教区大司教
2024年10月6日に菊地功東京大司教が枢機卿に任命され現在、日本の枢機卿は2名となっています。

尚、前田枢機卿、菊池枢機卿以外の枢機卿は既に帰天しています。

 

第264代目ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世は、2005年4月2日21時37分
(日本時間4月2日4時37分)
、バチカン宮殿において帰天されました。
(享年:84歳)
最後のお言葉は《アーメン》("そうなりますように"の意)だったそうです。
 


葬儀の様子(1)


ヨハネ・パウロU世の紋章
マリアの頭文字"M"が特徴です


葬儀の様子(2)

新ローマ教皇は、ベネディクト16世                                        (ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)
ラテン語の正式名称はベネディクトゥス16世(Benedictus XVI)

ベネディクト16世の紋章

(ドイツ人教皇は950年ぶりです)

略歴
1927年4月16日 ドイツ・バイエルンのマルクトル・アム・インに生れる。
1951年6月29日 司祭叙階。
1953年      神学博士号取得。4年後、大学教授資格を得る。
1959〜1969年 ボン、ミュンスター、チュービンゲンで神学を教える。
1969年      レゲンスブルク大学教義神学・教義史教授、また同大学副学長。
1962年      第2バチカン公会議顧問。
1977年3月25日 パウロ六世によりミュンヘン・フライジング大司教に任命。
1977年5月28日 司教叙階。
1977年6月27日 パウロ六世により枢機卿親任。
1980年      第5回シノドス報告者となる。
1981年11月25日 教皇ヨハネ・パウロ二世により教皇庁教理省長官 、
           聖書委員会・国際神学委員会委員長に任命さる。
1982年2月15日 ミュンヘン・フライジング名誉大司教。
1983年      第6回シノドス議長代理。
1986〜92年   『カトリック教会のカテキズム』編纂委員会委員長。
1998年11月6日 枢機卿団首席枢機卿代理に選出。
1999年11月10日 マリア・サンティッシマ・アスンタ自由大学名誉法学博士。
2000年11月13日 教皇庁科学アカデミー名誉会員。
2002年11月30日 首席枢機卿。
2005年4月19日  第265代教皇に選出。ベネディクト16世を名乗る。
<豆知識>
新しい教皇は、教皇名を自分で付け名乗ることができます。過去既に名乗られた名前があった場合はその名前に世番号を付加して名乗ります。例えば、「ヨハネ」を名乗るとき、過去にヨハネを名乗った教皇がいた場合は「ヨハネU世」となります。今回はベネディクト16世です。では、ベネディクト15世がいたことになります。 はい、そのベネディクト15世を紹介します。


ベネディクト15世

ベネディクトゥス15世(ラテン語:Benedictus XV,ベネディクト15世)
1854年11月21日生-1922年1月22日
ローマ教皇在位:1914年9月3日-1922年1月22日
カトリック教会の司祭。本名、ジャコモ・デラ・キエーザ(Giacomo della Chiesa)

1854年11月21日、ジェノヴァの貴族の家に生まれたキエーザはバチカンの外交官としての道を歩み、1875年に法学の博士号を取得。当時の大物枢機卿だったマリアノ・ランポッラに抜擢されて聖座でのポストを得、ローマ教皇庁の国務長官にまでなった。1907年にボローニャの大司教。1914年に枢機卿。第1次世界大戦が勃発後にピウス10世が亡くなり、キエザは第259代の教皇に選ばれ、ベネディクトゥス15世を名乗った。 彼は教皇としてバチカンの不偏中立を宣言し、平和実現のため、仲介者となろうとさまざまな外交努力を行ったが、19世紀以降の教会と国家の断絶が尾をひいていたため、無視され続けた。戦後になると世俗国家の仲介者としてのバチカンを目指した彼の継続的な努力がようやく実り始めたが、その成果をみることなく1922年冬に世を去った。また、彼は東方正教会との対話の再開を意図したことでも知られる。
在位中に列聖した聖人は、ジャンヌ・ダルク、リジューのテレーズなど。


参考まで以下、ベネディクト1世から14世までを紹介します。
ベネディクト10世は「対立教皇」(下記:説明参照)となっています。
ベネディクト9世は3度教皇の座に就いています。

ベネディクト14世 第248代 1740〜1758
ベネディクト13世 第246代 1724〜1730
ベネディクト12世 第198代 1334〜1342
ベネディクト11世 第195代 1303〜1304
ベネディクト10世 第160代 1058〜1059 対立教皇
ベネディクト9世 第151代 1047〜1048
ベネディクト9世 第148代 1045〜1045
ベネディクト9世 第146代 1032〜1044 ベネディクト9世は3度、教皇となった。(146,148,151代)
ベネディクト8世 第144代 1012〜1024
ベネディクト7世 第136代 974〜983
ベネディクト6世 第135代 973〜974
ベネディクト5世 第133代 964〜964
ベネディクト4世 第118代 900〜903
ベネディクト3世 第105代 855〜858
ベネディクト2世 第81代 684〜685
ベネディクト1世 第62代 575年〜579年
対立教皇 正当な権限が無いのに教皇を自称したり行動したりするもの。枢機卿が分派をつくり対立教皇を選出する場合もある。また、選出方法が確立されていなかった時期に単に混乱が生じたケースや正当な教皇が退位や追放を迫られた時に現れるケースなどがある。「対立教皇」という用語が使用され出すのは1192年頃から。

                    歴代のローマ教皇  ←クリック

ここでちょっと、 コーヒーブレイク 書 籍 紹 介

母のともしび

長崎県平戸市に生まれた著者の自叙伝的信仰生活の記録

<推薦のことば、から>
「母のともしび」をお読みになられた方は、必ずや著者の歩まれた道を眺めながら、明るく感謝にみちて生きる人間の幸福をしみじみと感じられ、ほのぼのとした楽しい共感をお受けになられることと信じます。
                  - 前京都教区長 パウロ古屋義之司教 -

著者:山本吉見
発行所:小羊社
出版社:中央出版社(現、「サンパウロ」出版社)

発行:1979年2月27日
(257ページ)
カバー(左)は旧上神崎(かみこうざき:長崎)天主堂のステンドグラス窓

※本書は絶版となっております。
(嘆願すれば...再版も?)

神父燦燦 ―カトリック司祭58人に聴く―”

カトリック新聞に掲載されていたコラム「神父燦燦」が書籍化して出版

<推薦のことば>
「神父さま」って、どんな人がどうしてなって何をする仕事なの?
世界中から集まって日本中で働く十人十色の神父たち。
信者も知りたい彼らの素顔が、信者でなくてもよくわかる。
元気と希望の人物図鑑!

                  - 山田五郎(評論家) -

編集:カトリック新聞社
発行者:阿部川直樹

出版社:有限会社 教友社
発行:2010年9月24日
(203ページ)
定価:1,200円(税抜)

Q3.カトリックの歴史を教えてください。

カトリックの歴史

カトリックの歴史は長く、説明しきれません。ここでは、歴史の中のポイントだけを説明していきます。

キリストには12人の弟子がいたことは有名な話で知っている方も多いと思います。その一番弟子はペトロという人でした。彼は優れた人物として認められ、イエスが十字架刑に処せられた後にはキリスト教会の初代指導者となりました。そこで、彼の後継者たちは皆、ペトロと彼の地位を踏襲しようとしました。彼らにとって最大の問題は、ローマ帝国とどう折り合いをつけるか、ということでした。なお、ペトロは西暦68年頃、逆さ十字架にかけられて殉教しました。

ローマ帝国は当初、キリスト教を否定していましたが、ローマ帝国が東西に分裂後、組織が十分出来上がっていたローマ教会(ローマ・カトリック教会)の優位性が益々強まっていきました。そんな中、西ローマ帝国皇帝は、ローマ教皇が帝国内の全ての司教の頂点にいることを公式に認めました。4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認された時、帝国内には次のような5つの有力な「カトリック」教会があり、「五本山」と呼ばれていました。
1.ローマ教会……(帝国首都)
2.コンスタンティノープル教会……(帝国第二首都)
3.アンティオキア教会……(シリア州都)
4.イェルサレム教会……(ユダヤ州都)
5.アレクサンドリア教会……(エジプト州都)
(この他にアルメニア教会、アビシニア教会[エティオピア]など)

西暦476年、ローマ教会は絶えずローマ教皇座の優位性を主張しつつ、教皇職は単なる聖職世界の権力だけでなく、俗界権力も兼ねた地位へと変化していきました。

7世紀前半に中東に突如イスラム帝国が出現し、シリアやパレスティナ地方にあったアンティオキア教会やイェルサレム教会がイスラム教徒によって滅ぼされてしまいます。 その結果、東方の"正統"な教会としては、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル教会を残すだけとなってしまいます。そのためこの教会は「ギリシア正教会」と呼ばれました。「正教 (オルトドクソス)」とは「正統的 (オーソドックス)」という意味です。 こうして西には"普遍的"なローマの「カトリック」教会があり、東には"正統的"なコンスタンティノープルのギリシア「正教会」があるという形になりました。両教会は、教義や、新来のスラヴ人に対する布教権などを巡っていつも対立していました。

しかし1054年、東西教会間で教会政治や典礼等をめぐる諸対立から相手を互いに破門するという大分裂が発生、後の400年間、俗界権力に更に翻弄されていきます。 なお、ギリシア正教は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1453年にオスマン朝トルコ帝国に滅ぼされたため、コンスタンティノープル教会も滅んでしまいます(ハギア・ソフィア寺院はイスラム教のモスクに改造されてしまいました)。しかし正教の伝統はモスクワの総主教に引き継がれ、「ロシア正教」を生みました。

ルネッサンス吹き荒れる16世紀にはローマ・カトリック教会の力はかつて以上に強大になり、教皇領(ローマ教会の世俗領土)の最大版図は1513年、中部イタリアはローマから、北部はミラノ、ベネチアまで迫っていました。反面、その宗教上の威信は低下する一方で、成熟した権力にはつきものの腐敗、「箱モノ」の造営等、贅沢の限りを尽くし、これは宗教改革者(プロテスタント)の発生を許すことになってしまいました。 「宗教改革」派(ルター派、カルヴァン派など)の考えである、信仰とは個人の内面の問題であって、教会のお世話になる必要はない、というその主張は、組織としてのカトリック教会を危機に陥れました。

18世紀末〜19世紀末、教会の弱体化を決定的に決めたのは、皇帝や王といった俗界権力ではありませんでした。人々はもはや、宗教の力を信じなくなっていました。
「産業革命」・・・ 近代科学は進歩し、人々に数々の奇跡を見せつけ、脅威も与えました。それと平行してイタリア半島の統一も進み、ナポレオンの支配等を経てイタリア王国が成立、1870年、ローマは併合され、その首都となりました。ここに、ローマ・カトリック教会は俗界権力の舞台における役割を終えたのです。

 

1929年2月、ムッソリーニとの長い話し合いの結果、教皇庁がイタリア王国を承認する代わりにサンピエトロ寺院とその周辺地域に独立を回復する「ラテラーノ条約」が締結され、「バチカン市国」が成立し今日に至っています。
ローマ教皇は第1代のペトロから現在の第265(264)代ベネディクト16世まで続いています。

 

Q4.カトリックって、どんな組織なの?

カトリックの系列

カトリックの組織(組織という表現はふさわしくありませんが)について説明します。

カトリックは教区にわかれています。教区は、カトリック教会の行政区です。その教区の責任者を「司教」といいます。司教は、使徒の後継者として他の司教達によって任命されますので、教区内に籍を置く信徒の選挙で選ばれるわけでは有りません。このあたりは今の民主主義の行政区とは違うところです。

ごく単純化して言えば、教区はキリスト教がだんだん形を成しながら、地中海沿岸に広がっていった頃、通商都市を核にして広がっていきましたが、こうし た当時の大都市毎のまとまりが、教区というまとまりになっていきました。

ちなみに、日本には現在15の教区があり、このうち東京、大阪、長崎は教会管区として、教区長 は主都大司教が任命されています。


<教区長>(敬称略)2024.2.14現在
中央の旗は、司教の紋章です。

札幌司教区


勝谷太治
仙台司教区


エドガル・ガクタン
新潟司教区


成井大介

さいたま司教区


山野内倫昭
東京大司教区


菊地功(枢機卿)
東京大司教区
(補佐司教)


アンドレア・レンボ
横浜司教区


梅村昌弘
名古屋司教区


松浦悟郎
京都司教区


大塚喜直
大阪高松大司教区


前田万葉(枢機卿)

大阪高松大司教区
(補佐司教)

酒井 俊弘

広島司教区


白浜満

福岡司教区


ヨゼフ・アベイヤ

長崎大司教区


中村 倫明



大分司教区


森山 信三

鹿児島司教区


中野裕明
那覇司教区


ウェイン・フランシス・バーント

  

日本の15教区

 

Q5.「教会」や「神父」について教えてください。

教区の中に○○教会と言うように私達が普通に呼ぶ小教区というまとまりがあり、小教区は大抵、礼拝や典礼の場としての聖堂をもち、責任者として司祭がいます。司祭と神父とは同意語です。司祭は司教の助け手として司教によって選ばれます。神父は男性で一生独身を通します。
ちなみに、プロテスタントの牧師は結婚ができます。また宗派によっては女性の牧師もいます。

教会はいつでも、誰でも自由に訪ねられます。 有名な神社・仏閣などで徴収しているような拝観料は不要です。 できれば、訪ねた教会で神父様や信者の方とお会いし、色々なことを訊ねてみると良いでしょう。

 

Q6.良く「プロテスタント」って聞くけど、なあに?

カトリックとプロテスタントの違い

プロテスタントとは、読んで字のごとく「プロテストする者」の意味で、カトリックへの批判と抗議から発生したものです。もっともこの呼称自体カトリック中心的なもので、プロテスタントの人々は自らを福音派(ルター派)とか改革派(カルヴァン派)とか呼んでいます。
ルターやカルヴァンによる16世紀の宗教改革以来、次々と新しい宗派が生まれましたので、プロテスタント諸派は考え方も典礼もさまざまです。カトリックにきわめて近いものから、教会という組織を全く必要としないものまであります。
プロテスタントの主な宗派には「聖公会」「ルター(ルーテル)派」「バプテスト教会」「メソジスト教会」「日本基督教団」などがあります。

では、カトリックとプロテスタントとの色々な違いを紹介しましょう。

  カトリックでは? プロテスタントでは?
宗派 世界中で一つ 世界中で多数
司祭の呼び名 神父(男性、一生独身) 牧師(妻帯可、女性可)
祈りの儀式 ミサ 礼拝
祈りの場 御聖堂(おみどう) 礼拝堂
儀式中の歌 聖歌 賛美歌
マリア信仰 私たちの母として崇敬 信仰の対象にしてないことが多い
キリストの呼び方 イエズス・キリスト
イエス・キリスト
イエス・キリスト

 

Q7.日本におけるカトリックの歴史を教えてください。

日本のカトリックの歴史

◆キリスト教伝来

日本にキリスト教を伝えたのは聖フランシスコ・ザビエルです。
聖フランシスコ・ザビエルは、1549年8月15日、聖母被昇天の祝日に、鹿児島に上陸しました。
ザビエルは、イエズス会のコスメ・デ・トーレス司祭とジョアン・フェルナンデス修道士、ヤジロウ(アンジロウ)という日本人を伴っていました。
9月29日、ザビエルは、薩摩藩主(鹿児島)の島津貴久(しまず たかひさ)に謁見し、宣教のための許可を求めました。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、その願いに快く許可を与えました。同時に、小さな家をも貸し与えました。

ザビエルは、日本語を上手に話すことができれば、多くの人たちがキリスト教徒になるだろうと考え、宣教師たちに日本語を学ぶようにすすめています。 ザビエルたちの熱心さに深い感銘を受け、洗礼を受ける人たちがあらわれたのです。そのひとりに「ベルナルド」という洗礼名を受けた青年がいました。彼は、ザビエルの忠実な同伴者となり、平戸、山口、都へと旅をともにしました。

1551年、ザビエルと共にインドへ赴き、さらにヨーロッパに渡り、1553年イエズス会に入会し、日本人の最初のイエズス会司祭となりました。ベルナルドは、ポルトガルで勉強を続けていましたが、1557年、道なかばで病気のために亡くなっています。

ザビエルが鹿児島に滞在した1年の間に、約100人が洗礼を受け信徒となりました。 また、ザビエルは、日本の諸宗教を知るために、寺々を訪問し、僧侶たちと話しました。 そのなかのひとつ、曹洞宗 福昌寺(ふくしょうじ)をたびたび訪ね、東堂(とうどう・前住職)の忍室(にんじつ)と親しく話し合いました。

布教するフランシスコ・ザビエル

長崎・カトリック平戸教会

◆キリシタン禁止の時代
しかし、しだいに仏僧たちの反感が強くなり、キリスト教の禁令を、領主貴久に要求しました。
貴久は、貿易のことを考え、迷っていましたが、1550年7月、フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダを船長とするポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、キリスト教の禁止に踏み切りました。
活動できなくなったザビエルは、祈りのうちに、ヤジロウの助けで、教理の本を日本語に翻訳したりしていました。はじめから日本の都である京都を目指していたザビエルは、この機会にそれを実行することにし、1550年8月、仲間とともに平戸へ向かいました。
◆明治維新後

1889(明治22)年、明治政府は大日本帝国憲法(明治憲法)を発布しました。その第28条には、条件つきながらも、信仰の自由が認められていました。これにより、豊臣秀吉、徳川家康以来の禁制が解かれることになり、キリスト教会は法的に認められることになりました。
カトリック教会は1891(明治24)年に日本の教会の組織(ヒエラルキア=聖職位階制度)を成立させました。

東京は大司教区となり、長崎、大阪、北海道が司教区となりました。 信教の自由は認められたましたが、今度は、キリスト教に対して、神道・仏教家などからの反撃運動が行われたり、中国との戦争で勝利をおさめると、国粋主義者などによって排外ムードが高まったりして、教会の歩む道は平坦ではありませんでした。


◆軍国主義の時代へ
昭和の時代に入ると、天皇制支配とそれに伴なう国家神道の力が強くなっていきます。このため、明治憲法の、条件つき信仰の自由の条項が、利用されるようになっていきました。

1937(昭和12)年の支那事変の勃発から戦争がはじまっていく中で、文部省による宗教団体の取り締まりが、はじまりました。 このため、日本の教会を守るために、日本のすべての外国人司教は自主的に教区長の職を退き、日本人の司教をたてました。そして「日本天主公教団規則」を作り、国から認可を得ることができました。 また、同時期には、多くのプロテスタント教会も合同で「日本基督(キリスト)教団」を作りました。
こうして軍国主義が強まる厳しい状況のなかで、教会の活動は制限され、宣教活動ができないようになっていきました。 そして、ついに太平洋戦争がはじまります。

◆戦後
1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終わりました。日本は戦争に負け、街は廃墟となってしまいました。カトリック教会はこの廃墟に建物を建て、深い失望と不安の中にいる国民にキリストの福音を告げていく使命がありました。
それまでキリスト信徒を悩ませていた、宗教団体に対する法律は終戦後まもなく廃止され、翌年発布された新しい憲法、日本国憲法には、完全な信仰の自由が盛り込まれました。

全世界から、たくさんの援助が寄せられました。特に戦後の最初の10年間に、男子修道会38、女子修道会26が来日して、社会福祉事業や、学校教育事業などをおこし、日本の教会の再建を助けました。 またこの時期、多くの司祭、修道者が誕生しました。特に多くの女子修道会をとおして行われた日本女性たちの献身的な働きは、大きな力となりました。
◆教会の発展

1946年、約10万人であった信徒数が、15年後の1962年には 3倍の約30万人になっています。
また、司祭、修道者への召し出しも増え、神学校もすでにあった東京の大神学校とともに、1947年には福岡にも大神学校が設立され、新しい司祭を毎年送り出しました。 修道会による教育や社会福祉活動も発展を見せます。
しかし、1960年代に入ると、発展の勢いは緩やかになってきます。戦後の貧しい時代から、経済発展の時代に入り、人々が物質的な豊かさを求めていったことも一つの原因でしょう。
教会の中にも問題がありました。カトリック教会は、まだまだ日本の風土、文化の中になじんでいませんでした。これは日本の教会だけではなく全世界の教会にも言えることでした。このような現状をみて、当時の教皇ヨハネ23世は、1959年に公会議を開くことを予告しました。


ここでちょっと、 コーヒーブレイク     リンク紹介
 「長崎旅ネット」、長崎の教会が一覧できます。

https://www.nagasaki-tabinet.com/junrei 

◆第二バチカン公会議
「教会の窓を開けて新鮮な空気を入れよう」との教皇ヨハネ23世の考えによって、1962年10月、ローマで第二バチカン公会議が開かれました。
約3年間続いたこの公会議によって、カトリックの全ての教会は、大きく変わりはじめました。

まず、ミサ・典礼が日本語に訳されました。それまで日本を含めた全世界の教会で、ラテン語で執り行なわれていたミサ・典礼がその国の言葉で行われるようになり、司祭や一部の人たちにしか分からなかった典礼が、信徒も内容を理解し、積極的に教会の典礼にあずかることができるようになりました。
また、エキュメニカル(キリスト教一致)運動も次第に盛り上がり、プロテスタントや他の宗教者との話し合いも、さまざまなレベルで行われるようになりました。
1978年には、はじめてカトリック・プロテスタント合同訳の新約聖書が発行されました。

【神学校】

神学校とは、神父や修道者(カトリック)、牧師(プロテスタント)を養成するキリスト教の学校です。カトリックにもプロテスタントにも有ります。
カトリックでは小神学校と大神学校があり、小神学校は修道院の少年版のようなものです。本格的な修道院は大学生からで、そちらは大神学校と呼ばれています。

カトリックの大神学校は1871(明治4)年、故プチジャン司教が東京・千代田区番町に「公教大神学校」として設立したのが最初で、パリ外国宣教会の宣教師がこの教授として任命されました。
カトリック教会も、戦後しばらくの間、大きな発展を見せます。

東京の大神学校(東京カトリック神学院)は文京区関口への移転を経て現在の場所、練馬区関町に移築されたのは1929(昭和4)年のことです。

1946年、約10万人であった信徒数は、15年後の1962年には 3倍の約30万人になりました。また、司祭、修道者への召し出しも増え、神学校もすでにあった大神学校とともに、1947年には福岡にも大神学校が設立され、新しい司祭を毎年送り出しました。
大神学校の東京はイエズス会、福岡は聖スルピス会に経営が委託されました。

1970(昭和45)年、東京カトリック神学院の運営はイエズス会から日本司教団の責任の下に置かれました。2000年12月、建物の老朽化と学生の減少を理由に、2階建ての新しい神学院が竣工されました。

<日本カトリック神学院>2009年、
東京カトリック神学院は「日本カトリック神学院 東京キャンパス」となりました。
日本カトリック神学院は旧東京カトリック神学院と旧福岡サン・スルピス大神学院の2校が統合・合併され2009年開校しました。
原則として、東京キャンパスでは、哲学科1年(初年度養成)と2年の養成及び助祭に対する教育を、福岡キャンパスでは、神学科1年・2年・3年を養成しています。

<長崎カトリック神学院>
1875年(明治8年)にパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父によって設立され、初代の校舎は国宝大浦天主堂に隣接して建てられた。当時は講義がすべてラテン語で行われたため、「羅典神学校(らてんしんがっこう)」と呼ばれていた。 初代校舎は、1972年(昭和47年)5月15日、旧羅典神学校として国の重要文化財に指定されている。1989年(平成元年)までの名称は長崎公教神学校(ながさきこうきょうしんがっこう)と呼ばれた。 (ウキペディアから転載)

 
Q8.「十戒」(じゅっかい)って聞いたことがあるけどカトリックに関係あるの?

カトリックの基本的な「おきて」に次の十戒」があります。アメリカ映画「十戒」をご覧になった方はご存知でしょう。
あのモーゼが神から受けて、石板に刻み込まれたものです。その内容は、

<神を愛する>
第1戒.私はあなたの主なる神です。私のほか、誰をも神としてはいけません。
第2戒.あなたは神の名をみだりに呼んではいけません。
第3戒.あなたは、安息日(日曜日)を聖としなければなりません。

<隣人を愛する>
第4戒.あなたは、父母を尊敬しなければなりません。
第5戒.あなたは、(人を)殺してはいけません。
第6戒.あなたは、姦淫(男女の不正な関係を)してはいけません。
第7戒.あなたは、盗んではいけません。
第8戒.あなたは、嘘をついてはいけません。
第9戒.あなたは、人の妻(または夫)を望んではいけません。
第10戒.あなたは、人の持ち物をみだりに望んではいけません。

の10の掟です。

映画「十戒」のポスター

Q9.「秘跡」(ひせき)ってなんですか?

カトリックには秘跡」(サクラメント)といわれているものがあり、次の7つです。

1. 洗礼:人が神の子としてあらたに生まれる秘跡。
2.堅信(けんしん):信仰を固め、それを強くあらわすために、聖霊の恩恵をあたえる秘跡。
3.聖体:パンとぶどう酒との形や色のもとにイエス・キリストのおん体とおん血が実際においでになる秘跡。
4.罪のゆるし:洗礼を受けた後に犯した罪を、司祭を通して許す秘跡。
5.病者の塗油(とゆ):病気が重くなった信者を、助け強める秘跡。
6.叙階(じょかい):司祭職につく権能をさずけ、これをふさわしく行なう恩恵を与える秘跡。
7.婚姻:信者が男女の一生の縁を結び、夫婦のつとめをよく果たせるように、神の助けをあたえる秘跡。

(カトリックではこの婚姻の秘跡を受けた信者は神から与えられた婚姻(秘跡)であるので、神の承諾なしに離婚することはできません。つまり神は承諾しないので「離婚」できないことになります)

 

Q10.キリスト教では「皆平等」って聞くけど何故、階級があるの?

ローマ教皇−枢機卿−司教−司祭−修道士など、階級があるように思えますが、カトリックではこれらを「階級」とは考えておらず、これらを神秘体」に基づく区別としています。神秘体についてキリストの弟子の一人であった聖パウロは次のように教えています。「キリスト者は教会の神秘的な体です。その頭はキリストであり、その体は受洗者です。頭と体は同じ命に生かされているように、神秘体の頭であるキリストと、その肢体である私たちも同じ恵み、同じ聖霊に生かされているのです。」
「洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」(聖書第1コリント12章13節)とあるように、キリストとの一致を強調するために、パウロは、飲む人と飲まれた水が一つであるように、洗礼によって私たちとキリストは一つであることを教えています。

 

Q11.「原罪」(げんざい)って何ですか?

原罪とは、「人間は生まれつき罪をもっている」言いかえると「罪を持って生まれてくる」、というカトリックの考えです。生まれた赤ちゃんや子供に何も教えなくても自然と悪いことは覚える(現われてくる)ということです。聖母マリアは原罪がなかったので「無原罪の聖マリア」と呼ばれています。

 

Q12.「三位一体」って、どのようなことを意味するの?

イエス・キリストは、神はただご一体でありながら、しかも父と子と聖霊というお三方であることを、お教えになりました。
父とは、子と聖霊との源で、永遠においでになるおかたです。子とは父から永遠のみ言葉として生まれたおかたです(キリストのこと)。聖霊とは、父と子から永遠の愛として出るおかたです。
人の知恵では、三位一体のわけを知ることが出来ません。神の啓示ですから、これを信じるのです。

Q13.「シスター」って、どんな人のこと?

教会では、子ども・病院・老人の世話、教育、宣教、研究などのいろいろな活動が行われています。このような活動には何よりも献身的に働く志を持った人が望まれます。 教会の中に、こうした目的のために働く有志の団体が、数多く生まれてきました。教会の認可を得たこれらの団体を修道会」と呼び、事業に従事するものです。
その修道会で働く男性を修道士ブラザー)と呼び、女性を修道女シスター)と呼びます。全員、生涯独身を通します。この修道会の制度はカトリックにしかありません。

修道会のほとんどには、制服があります。良く、映画やテレビそれに、街中でシスター独特の制服を着ている姿を見かけたことがあると思います。右下写真のマザー・テレサも神の愛の宣教者会の制服を着ています。しかし修道会の中には、一般の方達にとけこんで活動をすることを目的に、制服を持たない私服の修道会もありますので、外見ではシスターかどうか判断がつきません。

修道士、修道女は修道院」に住みます。修道会はほとんどが、女性のみや、男性のみですが、中には男性も女性もいる修道会もあります。

     マザー・テレサ

シスターの中でも特に皆から尊敬されている立派な方や指導者を、マザーと呼びます。マザーでは福者マザー・テレサが有名です。ここで、マザー・テレサについて少しふれてみましょう。

マザー・テレサは1910年、アルバニアのスコピエ (現 マケドニア領、当時はオスマントルコ帝国領)で生まれました。マザー・テレサの本名はゴンジャ・ボジャジュ( Gonxha Bojaxhiu)です。
1929年9月、18歳でアイルランドのロレッタ修道会に入り洗礼を受けました。洗礼名はアグネスです。これで名前はアグネス・ゴンジャ・ボジャジュ(Agnes Gonxha Bojaxhiu)となりました。
同年12月イ ン ドに派遣され、1929年5月シスター(修道女)となりました。
1931年5月24日 初誓願を宣立し、 修道名は「幼きイエスのシスター・マリア・テレサ」となりました。以後、アグネスと呼ばれることはなくなりました。シスター・テレサです。
インド独立後の1948年、ローマ教皇庁の許可 を得て、カルカッタのスラム街に移り住み、貧しい人々や孤児、ハンセン病患者 らの救済活 動を始めました。

1950年10月7日、自ら修道会『神の愛の宣教者会』(ミッショナリーズ・オブ・チャ リ ティー) を設立し総長となり、インド国籍を取得しました。このときから、シスター・テレサは「マザー・テレサ」と呼ばれるようになりました。
日本にも81年以降、たびたび訪問し、東京の山谷や大阪市のあいりん地区などに足を運んで「貧しい人のために行動を」と訴えました。マザー・テレサ日本事務所が設立され、東京に捨て子を育てる施設も開設されています。
また、マザー・テレサは来日の際に「人工妊娠中絶は殺人です」ときっぱりと言っています。
1979年ノーベル平和賞を受賞しました。受賞後も、朝4時に起床、シスター達と一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活をほとんど変えずに行い続けました。

マザー・テレサは1997年9月6日の午前1時(日本時間)に87才の生涯を閉じまし た。2003年10月、マザー・テレサはヨハネ・パウロU世により福者(聖人に一番近い者)に上げられました。マザー・テレサは決して自らの名声は求めず、恵まれない人々への「愛の奉仕」に一生をささげました。「豊かさとは与 えるこ と」。 キリスト教の説く愛を、言葉よりも行動で示し続けたそのひたむきさは、国境や宗教を超え世界中に感銘を与えました。

その後、2015年12月17日、ローマ教皇庁は教皇フランシスコがテレサの二度目の奇跡を承認したと発表しました。2008年、脳腫瘍を患い危篤状態だったブラジル人男性がマザー・テレサのとりなしによって回復された事例が奇跡と認定されました。 2016年9月4日、教皇フランシスコはマザー・テレサを列聖し、「聖人である」と宣言しました。この日はマザー・テレサの死後、満19年目を迎える前日でした。

聖者マザー・テレサ
Life is a Gift !

「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」


修道会としては、イエズス会、女子パウロ会、フランシスコ会、トラピスト会など多数です。

代表的な日本に有る修道会のホームページです。

イエズス会

イグナチオ・デ・ロヨラが創始者です。日本にキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルはイエズス会の神父です。イエズス会の経営する大学に上智大学があります。

女子パウロ会

女子パウロ会はキリスト教(カトリック)の書籍を多く出版しています。

フランシスコ会

アシジ(イタリア)の聖フランシスコの意思を継承している修道会で、フランシスコ・ザビエルとは関係がありません。

トラピスト会

正しくは「厳律シトー修道会」と言い、修道院はトラピスト修道院と言われ北海道の函館が有名です。観想修道会です。

修道会によっては、社会に出て働きながら修道士(女)としての任務を果たす「活動修道会」と、世俗から離れ、修道院で祈りと仕事に従事し自給自足を行い一生を過ごす「観想(かんそう)修道会」があります。「観想修道会」で有名なのは、日本では北海道にある「厳律シトー修道会」(「トラピスト修道院」)や「カルメル会」などがあります。
日本には、多くのカトリック系のミッション・スクールや社会福祉事業がありますが、これらのほとんどは、教育修道会によって設立され、その力で支えられています。

Q14.「洗礼」って、どんな意味を持つの?また、どんなことをするの?

洗礼」とは、キリストに従って生きようとする人のための入門式で、2000年前にヨハネという人がイエス・キリストにバプテスマ(洗礼)を授けたことに発しています。 受けられるのは、よく準備した上で、自分からそれを望む方々に限られています。

●洗礼は受けたいと思えば、すぐ受けることが出来ます。然し、いきなり洗礼を受けたいと思っても、どうすれば良いのか判らないと思いますので少し、説明します。

カトリックの洗礼を受ける場合は、少し考える時間を置く形で進められます。つまり、教会が準備しているキリスト教入門講座に参加し、神父様とお話する時間を持つようにしています。
本来は一年くらい勉強してみることをお勧めしますが、早い人だと、数ヶ月で洗礼を受ける人も居ます。

カトリック教会の場合、洗礼を受けるまでに、数段階あります。一つは、「入門式」です。
これは、キリストについて勉強してみようと思ったら受けるもので、儀式というより、お勉強です。

もう一つは、「洗礼志願式」です。
これは、洗礼を受ける準備を始めるという意味で、志願し、これから、洗礼を念頭に、信仰について考えていきたいという信仰の表現の一つです。そうして次が、「洗礼」となります。

また、洗礼を受けた後に堅信」という秘蹟があります。これは、聖書にある聖霊が下る事を意味する儀式で、聖霊の力によって信仰が強められます。

この様に洗礼までは様々な儀式が有るように思えるでしょうが、これら、入門から堅信までを一度に行う場合もあります。「受洗」は、別に試験がある訳でも、ハードルが有る訳でもありません。ただ、一つ一つには、カトリックが2000年間の間につちかった豊か意味があると思います。一度に全部食べないで、一つ一つを味わうのも良いと思います。

さて、この入門式から洗礼、堅信までの一連の流れの中で、「代父」「代母」というものが必要になります。この代父、代母について少しお話しましょう。
代父代母は、英語で言うとゴッドファーザー、ゴッドマザーとなります。そういう題名のイタリア・マフィアを描いた映画がありましたが、あの場合は、「幼児洗礼(生まれてすぐ洗礼を授けること)」の名付け親と言うことで、マフィアはそうしたつながりを大事にすることで知られています。
通常、「洗礼」を受ける方は信仰のこと、祈りのこと、また式の事など、悩みごとや相談したいことが一杯だと思います。そこで、この代父母を通して、色々な本やインターネットでは得られない、信仰を守って、実り豊かなものにする為の知恵やアドバイスを頂きます。 もし、知り合いにカトリック信者の方がいらして、その方に!という希望があれば、その方にお願いする事も出来ます。殆どの方は、そういった方がいないのが現実だと思いますが、その場合、神父様が、選んでくださいます。 神父様は、入門講座を有していますが、そこで、洗礼を受けた人々が、集まって神父さまを助けたりしながら、洗礼後も、神父様を中心に色々な会がひらかれます。その様な会の中の人や、神父様の知り合いの人を紹介されると思います。
さて、代父(母)が決まり、入門式を受けたり、洗礼を受けたりと、これからは、儀式について少し解説します。

洗礼には「洗礼名」が必要となります。洗礼名は「霊名」ともいいます。洗礼名には聖人の名前を付けます。たとえば「マリア」とか「フランシスコ」とか、聖人の名前です。日本では、男性は、ヨゼフ、洗者ヨハネ、使徒ヨハネ、パウロ、フランシスコなど、また、女性では、マリア、テレジア、クララ、ベルナデッタなどが多いようです。
聖人に一番近い「福者」も洗礼名にすることができます。 今年、福者に上げられた「マザー・テレサ」も洗礼名にすることができますので、今後洗礼を受ける人の中には「マザー・テレサ」を洗礼名にする人が増えてくることでしょう。

全ての儀式は、殆ど、同様に行われます。大体、入門講座に出ますと、復活祭(4月)、クリスマス(12月)に入門・志願・洗礼・堅信の式が行われ るので、その様子を、見ることも可能です。多くの人は、これら 洗礼式の姿などをみて、感動し、自分も受けたいと思うようになるようです。勿論、この時期に とどまらず、いつでも受ける事が出来ます。
家族の出席は当然、問題なく出来ます。クリスチャンではない方も。誰を呼んでも構いません。ただ、初め ての方には、(招待する場合)一応、ミサについてなど、簡単な説明を事前にしてお いてあげる方が、良いと思います。

洗礼式といっても、ミサですから、ミサの事が 解っていたほうが良いと思います。
さて、洗礼の式次第ですが、これは、非常に長く、とてもこの場では書き切れません。
簡単に説明しますと、まず、洗礼者(入門・志願も)は 前に出て、神父様からの質問(前もって決まっており、答えも決まっています)に 答えます。洗礼を希望しますか?―はい。みたいな感じです。また、イエスの道に倣っ て生きる事を望みますか?―はい、望みます。のような問答を繰り返 し、神父様が最後に洗礼の水をかけてくださいます。
この時、水がこぼれるので、受け 皿を持つ人を準備します。友達や、両親でも可能です。勿論、いなければ、 神父さまが準備してくださいます。そうして、神父様から、女性は白いベールを、 男性は白い布を戴き、身にまといます。

日本の教会での洗礼式

洗者ヨハネから洗礼を受けるイエス・キリスト   海外ではこのように全身に水を浴びる洗礼も多い

Q15.「ミサ」って、なあに?

ミサ」とはラテン語で〈派遣〉を意味する言葉に語源を持つ名称です。ラテン語のミサの最後の言葉が「ITE MISSA EST(行け、終わった)」であった ころから、そう呼ばれるようになりました。ミサの由来は、キリストの「最後の晩餐」、彼が死を迎えようとされた時にさかのぼります。 その時、十字架の死を覚悟しておられたイエスは、食事の途中、パンと葡萄酒の杯を取り、弟子に与えて、こう言われました。「これは、あなた方の為に渡される私のからだである。これは、私の血である。私の記念としてこれを行いなさい」。以来弟子たちは「週の初めの日」(日曜日)を「主の日(主日)」と呼んで、この記念を行っていました。

カトリック教会は、それを現代の「ミサ」の形で2000年の間継承し、共に祈る大切なものとしています。初めて教会に来られた方も、皆と一緒に祈ることができます。ミサには、どなたでも参加できます。洗礼を受けていない方も信者と共に祈ることができ、司祭から「祝福の祈り」を受けることができます。

ミサは日曜日の他に、平日、また、結婚式、葬儀などの大事なときにも行います。 司祭が司式し、信者と共にミサをささげます。 ミサのとき、私たちは、神の全ての恵みのために感謝をささげることにしています。 それで、ミサは「感謝の祭儀」とも呼ばれます。
なお、このとき、私たちはキリストを記念するために、まず、その教えを聞きます。 すなわち、ミサの前半には「聖書」が読まれ、「説教」が行われます。 日曜日に読まれる聖書の箇所は、原則として、「旧約聖書」から一箇所と「新約聖書」からイエスの「使徒たちの文書」と、「福音」のそれぞれの一箇所です。毎日曜日、どんな箇所が読まれるかは、全世界の教会のために決まっています。みなの便宜のため、その日の聖書朗読を印刷したものが準備されていますので、教会の入り口で「聖書と典礼」というパンフレットをもらってください。それはミサが済んでから持ち帰っても結構です。 ミサの順序が書いてある小冊子もあります。
歌われる聖歌は、また別冊にあります。ミサの途中、みなが立って祭壇に進み「御聖体」という白いパンを頂くとき、洗礼を受けていない方は自分の席に残ります。洗礼を受けた方だけがいただくからです。 教会によって、そのとき、洗礼を受けていない方のために祝福をいのる習慣もあります。 お望みでしたら、前に進み、頭を下げ、手を合わせたまま祝福をいただくことができます。

Q16.「天国」って、本当にあるの?

天国が本当にあるかどうかは生きている私達にはわかりません。しかし、有ると信じています。カトリックでは次のように教えています。ちょっと解かりにくい言葉もありますが良く吟味してください。

天国とは、救いの恵みをいただいた人が、神の愛と光栄にあずかり、諸聖人とともに限りない幸福を受けるところです。天国に行く人は、成聖の恩恵をもち、罪をゆるされて、償いを完全に果した人です。
(成聖の恩恵とは、人を聖とし、神の命にあずからせる恵みです。)

地獄とは、神を捨てた人が、神から離れて、悪魔とともに永遠に苦しむ所です。地獄に行く人は、大罪のゆるしを受けないで死んだ人です。

カトリックには煉獄(れんごく)という考えがあります。
煉獄とは、人がこの世で果たしおえなかった罪の償いを、果たしおえるまで、苦しみを受ける所です。煉獄へ行く人は、成聖の恩恵をもっていても、小罪があるか、あるいは罪の償いを果たしおえないで死んだ人です。

Q17.「聖人」って、なあに? どんな人が聖人になるの?

歴代の教皇を含めた「教会暦」の中で記される聖人の中には、2種類の聖人がいます。 古代から近世までの聖人と現代の聖人です。
◆古代から近世までの聖人は、現在のように教会が公に「この人は聖人です」と列聖式を行って宣言していませんでした。ですから、ある方が亡くなった時に(ある人は、生前からも聖徳のほまれが高い人もいます)、自然発生的に「この人は聖人だ」という動きが出て、認められていました。
◆しかし、現代はそうではありません。ある方が亡くなり、この人は聖人だった、教会で公に聖人として認めてほしいと思う人や団体は、その願いを教皇庁列聖省に届 けます。
列聖省には、全世界から膨大な申請書が届いているそうですが、列聖省の人々はそれら書類を調べ、列聖の前段階である列福に、その人が値する人であるかどう かを調査します。正式に列福調査を始めると決まった人は、列聖省が「今からこの人の調査を開始します」と宣言した時から「神のしもべ」(女性の場合は、「神のしも め」)と呼ばれるようになります。

<調査方法>
●第1段階
第1段階の調査の役目は、聖人だと思われる人が主に生活していた所や、亡くなった場所の教区司教にあります。司教は責任をもって、教皇庁列聖省に必要な書類を整えて提出しなければなりません。  教区司教が提出するものは、神のしもべの細かい生涯の記録、証言などです。これには、その人自身が書いた文章などがあれば、それら全部が調査対象になります。ですから昔に比べて、現代はこの調査は非常に大変です。テープなどに録音された音声記録やビデオなどに撮られた映像記録も逐一調べなければなりませ ん。  その他、神のしもべ(しもめ)が活躍した地方でその人が尊敬されているかどうか、多くの人がその人に取り次ぎを求めて祈ったりしているかどうか、神のしもべ(しも め)を知っている人が現存しているかどうかなどを調査し、その証言を求めたりします。

●第2段階
列聖省の人々は調査された書類を調べ、列聖の前段階である福者に列するに、その人が値する人であるかどうかを調査します。  列聖省の調査委員たちは、教区から提出された神のしもべの細かい生涯の記録、証言、全著作、音声記録や映像記録も調査します。当然、書類上の審査だけでな く、神のしもべ(しもめ)が活躍した地方に赴いて調査をするという現地調査も含まれてきます。  書類上の調査が一段落したところで、神のしもべ(しもめ)の列福への歩みが確実になったと判断されたら、神のしもべ(しもめ)のお墓とご遺体の調査が行われま す。  この調査が終わると、「神のしもべ(しもめ)」から、「尊者(そんじゃ)」の称号をつけて呼ぶことが許されるようになります。
これらの調査にかかる費用はすべて、依頼者負担が原則になっています。ですから、列福式や列聖式にはお金がかると言われるのはそのためです。

●奇跡について
その他、どうしても欠かせないのは、奇跡です。殉教者の場合、奇跡は必要ないのですが、殉教者以外の証聖者の場合はその人の取り次ぎによって引き起 こされた「奇跡」がどうしても1つは必要とされています。  この奇跡は、現代科学でどうしても解明できないもので、これは神様による以外にはないと思われるものしか認められません。ですから、医学的調査やその他種々 の調査がそれに伴ってきます。  奇跡を受けた本人は言うに及ばず、そのことを証言する人たちからの資料が集められ、奇跡が起こった教区の司教の招集した人々からなる調査が行われ、この奇跡が尊者の取り次ぎによって確かに行われたという結論が出されれば、その結果は、教皇庁列聖省に送られます。  列聖省では、「医学諮問会議」「神学者査問会議」を経て、「枢機卿査問会議」にかけられることになります。

●第3段階
枢機卿査問会議の審議を通った尊者の最終審査は、教皇に委ねられます。  ここで、教皇が「列福の教令」にサインをなさった時、「教皇様は、このたび尊者○○を福者になさいました」という知らせが、関係者に伝えられます。
列福式 列福の通知とともに、いつ、どこで列福式が行われるかが発表になります。たいてい、発表から実際の式までは、2、3ヶ月から半年後に行われるのが普通です。準備の期間が必要だからです。
●聖人
福者は聖人になる前の段階ですが、福者から聖人になるためには、さらにもう1つの奇跡が、要求されます。その奇跡の申請については、福者の調査と同様の手順が踏まれます。最終的に教皇が、申請された福者を列聖式によって、聖人の位に挙げるのです。  しかし、聖人への申請がない場合には、福者のまま留まる人もいます。たとえば、画家として大変有名なフラ・アンジェリコは、別名ベアト・アンジェリコと呼ばれてい るように、「ベアト」つまり福者なのです。

女子パウロ会の資料から>

 

チマッティ神父の列聖調査
ここで現在、聖人に挙げるべき調査活動をしている一人の事例を参考に紹介します。その方はまだ列福にまで至っていませんが多くの長い調査を経て、列福、列聖を待っている段階です。この様子を少しでも知っていただければ幸いです。その方の名はチマッティ神父です。
神父はサレジオ会の神父として長く日本に滞在し、日本で帰天しました。(カトリックでは死亡することを天国に召された、帰った、という意味で「帰天」という言葉を使います)
次の調査経過文は東京調布市にあるサレジオ神学院の資料からの抜粋ですが、多少手を加えてあります。
師 (カトリックでは神父のことを「師」と表現します。たとえば、山田神父は山田氏ではなく「山田師」と表現します) の死後、とくにイタリアや日本は、その列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強くなってきました。

1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成したとき、チマッティ神父のご遺体は、棺を開けないままで、府中カトリック墓地からその地下聖堂に移されました。 師の列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強かったのは、師のあまりにも世俗離れした行動と言動のためでした。

●まず資料集めから始めます。
列福調査には、まず資料を集め、そして、付き合った生き証人の証言が必要となります。チマッティ神父の場合、広く活動したので日本とイタリアでその情報を収集する必要がありました。この任務をはたしたのは、師の最後の3年間、サレジオ神学院の院長だったA.クレヴァコーレ神父でした。神父は、1995年12月28日まで列福運動の担当者を務めました。

○950の作曲と5700通の手紙
仕事を手がけたら、集まってきた資料の膨大な数に驚かされました。チマッティ神父の著作、本と記事、方々から出てきた作曲、人びとがよせてきた手紙、師が収集し整理した化石、鉱石、貝類、植物の標本の数々は、師の活動と趣味の広さを物語っていました。 今、師の資料館には950ほどの作曲が集められています。その中に、オペレッタは49、ミサ曲は19、聖体讃美式のためのTantum ergoは83、マリアさまの歌は約200、日本語の作曲約400などです。これらの曲を分類し、整理したのは、同じファエンツァ出身の音楽家Ino Savini氏、そして、教え子のRoberto Bosco氏でした。 手紙の数は5700通を越していました。ほとんどイタリア語です。日本語のものは原則としてローマ字ですが、戦時中、監視の厳しい時、カタカナで書いたものもありました。 今も、新しい手紙がよせられることがあります。これほどたくさんが保存されたのは、受けとった人びとがチマッティ神父を尊敬していたことの証拠です。師の心とその霊性を知るために、これらの手紙は類のない貴重な文献となります。ただいま、日本に関係あるものの翻訳が始まっています。

●証言の収集
生き証人の証言は、列福調査に欠かせません。中には、自発的な証言が多く、東京やトリノの司教から任命された調査委員会の前で行われた公式証言もあります。これらを通して、チマッティ神父について知られていなかったエピソードや、生き方の細かいところまで知ることができます。死後10数年以内に得られた証言ですから、その信憑(ぴょう)性は高いといえます。

●調査終了
東京教区の調査が正式に始まったのは1976年11月26日。終了したのは1978年1月24日でした。この日、調布サレジオ神学院の聖堂で当時の白柳誠一大司教と調査委員をはじめ、多数の聖職者、サレジオ会員、シスター方が参列し、まとめられた資料50巻がローマの調査委員会に送られました。

○トリノ教区での調査が終了したのは1978年6月3日でした。 その後、教皇から任命された調査委員会の判断を待つことになりました。

●ご遺体は腐敗していなかった
教会法の規定により、調査修了の前、司教、調査委員、医師団の立会いの元で、ご遺体を検案することになっています。チマッティ神父の場合、1977年11月18日、調布サレジオ神学院地下聖堂で棺を開け、検案を実施しました。列席者はみな驚きました。二人の医師の記録はこう記しています。 「遺体はミイラ状態に非ず、死蝋状態に非ず、白骨化せず、全身にやや湿潤す。死臭は存せず、ただし、特別の匂あり。皮膚は弾力性あり、…軟部組織は柔軟にして弾力性あり、…緒関節は他動的にほどんど正常範囲まで運動可能なり…。以上の所見を総合して、死後12年を経過したる死体としては、われわれ二人の医学常識によっては説明する事は不可能なものである事を認めたい。」 遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置されました。 列福には奇跡を必要とします。これは一つの奇跡です。今は教皇庁からの判断を待っています。

 

最後に故・白柳誠一枢機卿のお話を紹介します。


故・白柳枢機卿

「チマッティ神父様は、本当にドン・ボスコの精神を持ち続けた人だと思います。ですから、その活動において非常に活発であり、すごい判断力に富んでいました。また、その基礎には本当に祈る人、がありました。彼の祈る姿は多くの人に感銘を与えました。私もその姿に接したことがあります。現代社会は、聖なる人を求めています。特に教会はそうです。教会は言葉だけでなく、生き方を通して、神の愛を証することが必要です。そういう意味でチマッティ神父様は本当に聖徳高かった。ですから、一日も早く列福されることを心から期待しています。そのためには、皆様方がチマッティ神父様のお取り次ぎを願って特別なお恵みを頂いたとか、奇跡的なことがあったとかで、そういうことがあったならば、それをぜひ関係者に報告して、それがまたチマッティ神父様の列福を早めることになると思います。」

白柳枢機卿は2009年12月30日に帰天されました。

ありし日のチマッティ神父

チマッチ神父に関するホームページです。

            http://www.v-cimatti.com/

<チマッティ神父の略歴>
1879.7.15 イタリア・ファエンツァでチマッティ神父誕生 同日にカテドラルで洗礼を受ける。
       洗礼名は「ヴィンチェンツォ・エンリコ・ガスパーレ」。
1899.9  王立トリノ大学自然化学部に入学 − 下級生の音楽と生活指導担当し、 必要に応 じて、
       国語・ラテン語・数学・化学・物理学・農学・教育学も教える。若い会員に人気!
       ピセッタ神父シンプの下で神学の勉強も始める。
1903.7   自然科学農学部の博士号を修得。             
1923.7.18 日本への宣教事業がサレジオ会海外事業開始50周年記念事業となる。
       日本への宣教師の団長に任命される。
1925.12.29 ジェノワ港からイツ船「フルダ 号 」で9名が出港。
       船上で後の一橋大学初代学長上村専禄らと出会い、日本語を習い、友情を結ぶ。
       司祭V.Cimatti, A..Cavoli, G.Tanguy, A.Margiaria, P.Piacenza, L..Liviabella, 修道士L..Guaschino.
       A.Merlino, G.De Mattiaらと共に来日 。
1941.12.20東京三河島教会の主任司祭となる
1943.9   イタリア人宣教師は敵国人と見なされ、警察の監視下に置かれる。三河島教会で監禁される
1944.9   三河島教会の主任司祭を辞め、練馬の神学校へ移る。 
1946〜   数々の作曲やコンサートを行う。国分寺サレジオ学園の園歌を作曲
1952.2.21 調布サレジオ短期大学校の初代学長となる。 
1962.3   調布サレジオ神学院院長を退任する。 
1965.10.6 朝6時15分に帰天。享年86歳3ヶ月。
1965.10.8 下井草教会で葬儀。府中カトリック墓地に埋葬される。 
1976.11.26東京教区で列福調査が開始される。 生き証人の証言を聴取。
1977.11.18東京大司教と2人の医師の下で遺体検証が行われる。
       その結果、遺体が腐敗していないことを確認する。
1978.1.24 日本での列福調査が終了。ローマへ資料を送る。
1978.6.3  トリノ市でイタリアの列福・列聖調査終了。
1981.6.3  チマッティ神父の著書の調査終了。
1991.12.21 ヨハネ・パウロU世教皇から「尊者」の称号を授与される。
1996.5.12 姉・シスター・ラファエラ・チマッティが列福される。

 

Q18.「聖人」になった人の話を聞かせてください。

聖コルベ神父
コルベ神父は数名のポーランド人修道士達と共に1930(昭和5)年4月24日、長崎に上陸し大浦天主堂の近くの古い借家に住みました。同年5月24日、全く日本語の分からないコルベ神父達は日本活字による「聖母の騎士」第1号を1万部発行しました。そののち、町はずれの本河内山の険しい山の斜面に聖母の騎士修道院とルルドを開き、聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念しました。

コルベ神父は1936(昭和11)年5月に会議のため故国ポーランドへ帰国しましたが、やがて第2次世界大戦が勃発し、神父であるという事とナチスに協力的でないという理由でナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ強制収容所へ入れられました。

元来体の弱いコルベ神父は決められた強制労働にも従事し、また収容者たちの相談役としてまた収容所内で死者がでるとお祈りを捧げ、人々に希望を与え続ける存在でした。ある日のこと厳しい収容所生活から脱走をした囚人が居ました。収容所内の規則で1人の脱走者が出ると残った者の中から10人の死刑を執行するとの決まりがありました。収容所内で無作為に10人が選ばれ死刑の中でも最も悲惨な刑、餓死刑が宣告されました。

コルベ神父は幸いその10人の中には選ばれて居ませんでした。餓死刑を宣告された10人の罪のない囚人が地下の餓死室へ歩き出したその時、列の後方に居た1人の男が叫びました「私には妻も子供も居る!死ぬのは嫌だ!」その時ある男が身代わりに死ぬ事を申し出たのです。コルベ神父でした。
地下の餓死室に全裸で入れられた10人は1滴の水さえ与えられる事無く次々に死んで行きました。14日後最後まで生き残ったコルベ神父は毒薬の注射を受け亡くなりました。そのときのコルベ神父はまるで死ぬことを喜んで望むような穏やかな表情で自ら腕を差し出し、注射を受けたと、当時の担当者が証言しています。

コルベ神父は1941(昭和16)年8月14日、愛のために生命を捧げ、亡くなりました。

コルベ神父は1971(昭和46)年10月17日 教皇パウロ6世から「福者」に列せられ、1982(昭和57)年10月10日バチカンにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によりカトリック聖人にあげられました。

 

聖コルベ神父

Q19.では、日本人にも「聖人」って、いるの?

ペトロ岐部と187の殉教者(福者)

        詳細記事

日本26聖人
秀吉は、朝鮮侵略、そしてフィリピンにも侵略をほのめかし、フィリピン総督はフランシスコ会の司祭(ペドロ・バプチスタ司祭)を使節として送り、マニラ貿易の友好条約を結んでいます。フランシスコ会の司祭たちは、条約を結んだ安心感からか、彼らの清貧と慈愛の精神でもって公然と宣教しはじめました。
1596年10月、スペイン船のサン・フェリペ号が、フィリピンからメキシコに向かう途中嵐にあい浦戸に漂着します。この船は商船だったため、多くの積み荷を持っていましたが、秀吉の命令でその積み荷は没収されてしまいました。 サン・フェリペ号に乗っていたフランシスコ会士は、この件についてマニラ使節であったペドロ・バプチスタ司祭へ訴え、積み荷の返還を秀吉に求めました。そして、大坂奉行とスペイン人が積み荷のことで言い争っているとき、脅しの言葉、つまり「宣教活動の裏で他国征服の動きがある」といったほのめかしがあったのではないかと言われています。

このやりとりを聞いた秀吉は、「禁止されている教えを述べている」という理由だけで、クリスチャンたちを捕らえることにしました。捕らえられたのはペトロ司祭をはじめ、フランシスコ会の宣教師たち6名、イエズス会パウロ三木と2人の同宿、教会近くの信者15名(うち子供3名)の計24名でした。

殉教者たちは、見せしめとしてまず京都で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされました。伏見や大坂でも同じように扱われ、1597年1月10日大坂から長崎まで殉教の旅がはじまりました。冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながらの徒歩の旅です。罪状の書かれた高札をかかげられていましたが、権力者秀吉のもとを離れ、祈り、神を賛美しながら行く道は信仰によって支えられていました。
パウロ三木は道中、キリストの教えを伝え続け、まだ14歳だったトマス小崎は、母親へ感動深い別れの手紙をしたためています。また、殉教者最年少のルドビコ茨木は棄教の勧めをはっきりした態度で断っています。

そして旅の途中、信仰を証しするかのように新たな2名の殉教者が加わりました。長崎に着いた彼らは、最後に赦しの秘跡を求めましたが願いは聞き入れられず、1597年2月5日処刑がはじまりました。
場所は長崎西坂の丘(現在の西坂公園)、26の十字架が立ち並び刑場には4000人の信者が見守っていました。十字架につけられた26人は聖歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し、「私たちはキリストの教えを信じ、説いたために殺されるのです。しかし、太閤様も役人様も神の教えに従って心から赦します」と宣言しました。 こうして殉教者たちは4人の役人によって、左右から順番に槍で胸を突き刺されていきました。
日本26聖人殉教者は1627年に列福され、1862年 ピオ9世によって列聖されています。また殉教地は、1950年ピオ12世により公式巡礼地に指定されました。

「日本26聖人碑」長崎・西坂の丘

 

 

 

聖トマス・小崎

Q20.「聖書」の「旧約」と「新約」ってどう違うの?

聖書を大きく分けると旧約聖書と新約聖書とに分かれます。
「旧訳聖書」と「新訳聖書」ではないので注意のほどを。

旧約と新約のもっとも大きな違いはテーマです。「約」とは契約とかいう意味で、旧約聖書には古い契約が、新約聖書には新しい契約が描かれています。英語ではOld Testament, New Testament。この契約の違いのために、旧約の神は厳格な怒りの神、新約の神はやさしい慈愛に満ちた神というイメージを与えているようです。もちろん同じ神 なのですが...。

古い契約とはなんでしょうか。創世記に続く「出エジプト記」で、モーセは神から「十戒」という十の掟をもらいます。これが契約の最大の柱です。この時代は、神への捧げ物から 食べ物にいたるまで様々な決まりがあり「レビ記」などに詳しく書いてあります。これらの決まり事は「律法」と呼ばれ、この律法を人間は守りなさい、そうすれば幸福になりますというのが、神と人間の間に結ばれた「契約」でした。
律法を破ったときは、それに応じた罰−死刑の方法までも決められていました。

新約聖書のテーマは新しい契約です。イエス・キリストが登場し、古い契約を全く新しいかたちに更新します。いろいろな決まりを守ることによって救われるのではなくて、イエス を信じることによって救われるという新しい契約が、古い契約にとって替わるのです。
ここで、イエスを信じるとは何か、
という壮大なテーマが出てきます。イエス自身が聖書に関して面白いコメントをしているのでちょっと紹介してみま しょう。
『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べている。ところが聖書はわたしについて証をするものだ。』(ヨハネによる福音書5章39節)
イエスは旧約聖書でさえもイエス・キリスト を証明するものだと高らかに宣言しています。

果たして旧約聖書の中にキリストを見つけることができるでしょうか。預言書なら少しわかりやすいかもしれません。イザヤ書(イザヤの預言)には、処女マリアがキリ ストを産むこと(「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエル(神が共にいますという意味)と呼ぶ」イザヤ書7章14節)、そのキリストが無実の罪で処刑されること(イザヤ書53章)などが、はっきりと書かれています。

イエス・キリストについて知りたいと、新約聖書だけを読んだら、未解決の謎がたくさん残ってしまいます。歴史物語的な旧約聖書だけを読んでも、肝心の主人公が登場しない まま終わってしまいます。覚悟を決めて、両方を読破してください。聖書で訴えていることがはっきりと見えてくるはずです。
                               (中村芳子著「3日でわかる聖書」(ダイヤモンド社刊)より抜粋)

旧約・・・モーゼを預言者(予言ではありません)とし、創造主のみを崇めるめ、創造主より授かった言葉と、口伝をラビ(学者)が研究して注釈した物です。
新約・・・旧約に、イエスが伝えた(創造主より与えられた)言葉を加えたもの。
『新』しく契『約』し更新されたので、『旧』い契『約』とは分けています。

新約聖書の中には四つの「福音書」があります。福音書の著者は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネです。 そのうち 三つの福音書には共通の部分が多く「共観(同じ見方、という意味ですが、キリストが生きている時代に共に生き、キリストを直接観ていたから、という説もあります)福音書」といいます。
マルコ福音書の約91%がマタイ、ルカ両福音書の中に平行の記事として用いられ、マタイ福音書の約50%、ルカ福音書の約51%がマルコ福音書の平行記事です。ちなみにヨハネ福音書には、共観福音書の約9%しか平行記事はありません。

なお、この福音書著者のヨハネは「福音書家ヨハネ」といい、キリストに洗礼を授けたヨハネは「洗者ヨハネ」と呼んで区別しています。

Q21.日本にカトリックの学校ってあるの?

あります。カトリック校と言われる学校は小・中・高・大学と、全てに亘りありますが、修道会が経営する学校がほとんどで、幼稚園から大学まである学校や、中・高・大学のみであったり、大学のみだったり、女子校だけだったりと、さまざまです。主な(比較的著名な)高等学校、大学校を紹介します。

◆幼稚園:雙葉幼稚園、◆中学校:雙葉中学校

◆高等学校
海星高等学校、純心女子高等学校、白百合学園高等学校、暁星高等学校、暁星国際高等学校、聖心女子学院高等学校、聖光学院高等学校、雙葉高等学校、城星学園高等学校、星美学園高等学校、聖母の騎士高等学校、南山高等学校、南山国際高等学校、清心女子高等学校、ノートルダム女学院高等学校、ラ・サール高等学校、海の星高等学校、光ヶ丘女子高等学校、海星女子学院高等学校、聖心女子学院高等学校、明星高等学校、洛星高等学校など、たくさんあります。

◆大学校
聖心女子大学、エリザベト音楽大学、清泉女子大学、鹿児島純心女子大学、仙台白百合女子大学、京都ノートルダム女子大学、天使大学、神戸海星女子学院大学、東京純心女子大学、白百合女子大学、長崎純心女子大学、上智大学、南山大学、聖カタリナ女子大学、ノートルダム清心女子大学、藤女子大学 、などです。

Q22.カトリックの作家って居るんですか?

名な日本の作家の方などを紹介します。
(この中には、帰天されたかたもいらっしゃいます)

遠藤周作さん、

劇作家の矢代 静一さん、

高橋たか子さん、

曾野綾子さん 
〔曾野綾子さんは平成15年度の文化功労賞受賞されました。おめでとうございます!!
とご主人の三浦朱門さん、

犬養道子さん、

田中澄江さん、

井上ひさしさん、

深田祐介さん、
など。

そのほか、作家ではありませんがカトリック信者として、
       プロ将棋界に加藤一二三さん、がいらっしゃいます。
        歌手では前川清さん、アグネス・チャンさん、元キャンディーズのミキさん、
       辺見マリさん、元ヒデとロザンナのロザンナさん、など。

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